千利休がいなかったら・・・、堺という町がなかったら・・・。
茶の湯や歴史に詳しい訳ではないが、、今の日本の文化、日本の歴史すら変わっていたのではないか。利休と堺の町が戦国時代の天下人に大きな影響を与えたことは否定できないし、茶の湯を通じて現代の日本人の精神に大きく関わっていきていることも間違いない。
堺市内堺区宿院町に、『千利休屋敷跡』がある。
昨年、隣地に「さかい利晶の杜」の建設にともない、少し整備されたようだ。
「さかい利晶の杜(やしろ)」のHPで『千利休屋敷跡』を調べてみると、
千利休は大永2年(1522年)、堺今市町(現在の宿院西1丁)の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鷗に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。
屋敷跡には【椿の井戸】が残っていますが、椿の炭を底に沈めていたといいます。井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものです。
(出典:さかい利晶の社)
「さかい利晶の杜」の向かいに『千利休屋敷跡』はある
病院だった跡地に「さかい利晶の杜」が建設され道路を挟んだ向かいに『千利休屋敷跡』がある。
その道路に沿って塀が新たに設置されたようで、中央には数寄屋門があり、その両側には竹で化粧された塀が立ち、塀の一部には親子格子の透かしが入っている。おそらく、門が閉まっていても中をのぞけるような工夫をしたのだろう。
門をくぐると、正面の奥に存在感のある「井戸」があり、その脇に利休の生涯をつづった「石碑」が並んで立っている。石灯籠がいくつか置かれているが、建物の礎石(石の基礎)など、屋敷の跡地だった痕跡はみあたらない。
利休が使っていたかどうかは定かではないんです・・・
ボランティアの方が中にいて、早速「井戸」の説明を丁寧にしてくれた。
「この井戸の屋根は、京都・大徳寺山門(金毛閣)が昭和の大改修を行った時に、解体した古い部材を用いて建てられれました。」
「この井戸の水を利休は使っていたんですよね?」と聞くと。
「江戸時代の後期には、酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛という翁が利休を偲んで建てた「懐旧庵」があり、そのときにはこの井戸を利用したことはわかってますが、利休が使っていたかどうかは定かではないんです。」と。
おや、おや、おや・・・!?
屋敷跡?懐旧庵跡?
「利休屋敷でつかっていたのではないんですか?」と聞き直すと、
「当初は1000坪を超える敷地でこの辺り一体が千家の敷地だったそうだが、今では裏千家が所有している屋敷跡はこの70坪程度。江戸時代には「懐旧庵」が建っていたことは間違いないんですが。」
ということは『千利休屋敷跡』ではなく「懐旧庵跡」ではないか!!
「椿井(つばきのい)由来記」では
椿の井戸については、ここが整備される前、敷地に「椿井由来記」というものが掲げられていました。
これによると、
『江戸後期から明治中期まで、この場所で酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が居住していた。
「椿井」という利休が産湯を使った井戸があり、加賀田翁が居士を偲んで利休好みの茶室を建て、大徳寺の大綱和尚を迎えて茶室開きをした。和尚は利休の昔を懐かしむ心の茶室の銘として、「懐旧」と名付け利休居士にちなむ茶蹟とした。』
「利休が産湯をつかった井戸」どうゆう意味?
「利休の産湯に使われた井戸」ならわかるけど・・・。
深読みして「井戸が生まれた(掘られた)ときに利休がお湯として初めて使った。」という意味だとしたら趣き深いな~。「井戸の産湯」なんて聞いたことはないですけど・・・。
この由来記、加賀田翁と「懐旧庵」のことはわかるが、肝心なところの利休と「椿井」の関係が曖昧ではないか!
「椿井」名前の由来には2説あるそうだ
“井戸の水を澄ますために椿の炭を底に沈める習いがあった“という説。
“利休が茶の湯の師匠・紹鴎の許から持ち帰った椿の一枝を井戸のほとりに挿すと見事に白い大輪の花を咲かせた“という説。
利休が生まれる前から存在し、利休が生まれた時には産湯として使われ、屋敷で利休が常用していたとされるこの井戸を、その習慣やエピソードから名付けたとなれば、とてもロマンチックで趣深い。
でも、なんだか、あやしい・・・。
『千利休屋敷跡』には確証がない!!
大坂の夏の陣では焦土と化した堺の町は、徳川幕府によって全く新しい都市計画の基に再建された。その時、市街地が拡大されてだけでなく、それまでの街区の構造が大きく変わってしまった。したがって、中世の利休屋敷がどこにあったのかは、本当のところよく判っていないのである。
記録にある今市市が町並み改変後の近世期も今市町と同じ位置であったかどうかは疑わしい。現・利休屋敷跡は江戸時代末に利休を忍んで建てられた「懐旧庵」の跡なのだ。1898年、市立埋蔵文化財センターが行った隣接する場所の発掘調査では、利休屋敷に結びつく遺構・遺物はついのにでなかった。”
もう一度最初の、「さかい利晶の杜」のHP『千利休屋敷跡』を読み返してみても、井戸の屋形の由縁は断言していても、利休とゆかりのあるはずの「屋敷跡」や「井戸」の説明が、なんと曖昧なことだろう。
ロマンを感じることが大切なんですよね? 利休さん
ゆかりがあるとはいえ、皮肉なことに後世の方は、居士を自刃に追い込んだ要因とも言える「大徳寺の山門」を「椿井」の屋根に使ったことは事実の模様。
仮に「椿井」が居士の思い入れの深い井戸で、仮にここが屋敷跡だとするなら「そんなもの屋敷内に持ち込むな。」と言いたいのでは・・・。
居士を偲ぶ後世の人たちが、その場所を都合のいいように美化しすぎてる一面もあるのでは・・・。
でも、今自分の立つ地は、「400年以上も前に利休がお茶を点てていた屋敷跡であり、目の前の井戸で水を汲んでいた。」と思うほうが物語があり、ロマンがありますから・・・。
利休さん如何でしょう。
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千利休屋敷跡
「さかい利晶の杜」施設案内
http://www.sakai-rishonomori.com/shisetsu/sennorikyuyashikiato/
中井正弘ー千利休屋敷跡ー
http://www.for-you.co.jp/tour_sakai/column/igaishi/04/igai-04.html